インタビュー Vol.98
すべての情熱を音楽に捧げて 歌うことが生きること
野口五郎
日本ポピュラー音楽協会は長年ジャズを中心に公演を行なっており、ドリーム・キャラバンでは交響楽団とジャズ・ビッグバンドによる混成スペシャル・オーケストで歌っていただきますが、歴史をたどれば、ジャズ・スタンダードはミュージカルのために書かれた楽曲が多く、歌い継がれております。野口さんにとってのスタンダード・ミュージックとは
僕が当時まだ10代の頃から歌番組は全盛期で沢山あリましたが、数々の歌番組に出演している全てのビッグバンドのミュージシャンの方々とは凄く親しくさせていただき、どのバンドにどのミュージシャンがいるのかまで良く知っていました。歌番組の休憩中でも歌手仲間といるより、バンドメンバーと雑談をしたり、楽器を触らせてもらったり、バンドメンバーにはとても可愛がっていただきました。
例えば、小野満とスイングビーバーズだと小野さんのところに行って、「すみません、今日ベースいいですか~」ってお願いすると、小野さんが「いいよ~」って、ベースのひとの隣に行って、他の歌手の方の音合わせの時にリハーサルで僕が勉強させてもらったりしていました。みんな仲が良くて、「ゴローちゃん練習しなよ~」って言ってくださるので、ギターも横で練習させていただいたりしていましたね。
高橋達也と東京ユニオンのリーダーの高橋さんからは例えば、番組の1分のジャンクションがあると、「そういうのを作ってもいいですか?」って聞くと、高橋さんが「ゴローちゃんいいよ~ 作っておいで~ 」って言っていただき、1分のジャンクションや30秒のジャンクションをアレンジしてきて、それで本番に間違いがあったりすると、高橋さんが「ここはこうだよ~」って親切に教えてくださったり、ほかにもフジテレビ系「お昼のゴールデンショー」ではスイングフェイスの豊岡豊さんがドラムを演奏されていた頃からご一緒させていただきました。僕がまだ15歳の頃の話ですね~。
その後、16歳になって、鹿児島でのお仕事の時に、その当時は大先輩に口を聞くのも恐れ多い時代でしたが、ハナ肇さんに「ハナさんに質問があるのですが…」と思い切ってお聞きしたことがあるのです。それは、
ハナさん「なんだいゴローちゃん言ってみな」
野口「4beatと32beatとはどう違うのかを教えてください」
ハナさん「ゴローちゃん、面白いことを言うな~」 (笑)
って言っていただき、思い切ってお聞きしたことがキッカケで、それからずっと長年親しくさせていただき、可愛がっていただきましたね~ (笑)
その頃から笑いが「間」でいかに大切かということをハナ肇さんから教えていただきました。
そのことがクレイジーキャッツであったり、ドンキーカルテットであったり、ザ・ドリフターズであったりと音楽コントの「間」でつながるお笑いの要素を音楽から学ぶことができました。
当時は同時録音でやっていたので、例えばドアをノックするのでも16beatの裏でやらないといけないし、階段を上がるのでも、16beatの裏で、1、2、3、「カッ!カッ!カッ!」とリズム通りに上がらないといけないので、動きや動作が全部音楽だったのです。
生放送ですし、合わないと大変なので、緊張しましたね。
笑いでオチをいうのも、それを逃したらあとは失笑だから、先輩方からは失笑は絶対にダメ!とキツク言われましたね。コケる時も16beatコケないといけないとか…
それを一瞬のbeatで感じ取らないとお客さんは笑えないから大変でした。
今のお笑いをやっている人たちは「間」というのがないから、僕は入っていけないですね。笑いの「間」というのは本当に緻密に計算されているんです。僕はコケかたをドラム演奏をされる加藤茶さんに教わりに行きましたよ。
フジテレビの「全員集合」ではいかりや長介さんはアドリブが大好きで、僕は長さん(いかりや長介)に呼ばれて、高木ブーさんと一緒にギター持ってアドリブでやらされたりしていましたね。とにかく、お笑いは音楽が基本で生まれる芸なんですね。
こういったお話をファンの皆さまの前でされることはあるのですか?
コンサートではたまにすることはありますが、もういまはなかなか通じないですね(笑)
例えば、ビッグ4のスーパースターだったドラムのジョージ川口さんや、昔の有名なジャズ・ミュージシャンのお名前を言っても今の時代はわかり難いですよね
そうなんですよ。実は僕が日生劇場でコンサートをやることになった時にはひとつの条件を出させていただいたのですよ。それは、越路吹雪さんのロングリサイタルのリハーサルを見せて欲しいと。越路さんはリハーサルを絶対に誰にも見せなかったのです。
その時のドラムがジョージ川口さんでしたので、本番ではなくリハーサルを見たかったのでお願いして見せてもらいました。
野口さんはジャズもお好きなのですね
今回のドリーム・キャラバンの選曲には色々と悩んだのですが、オーケストラの中にジャズのビッグバンドが入っているので、普段歌わないような選曲にしましたのでお楽しみに!
ギターを初められたきっかけは
これって、いまだから言っちゃいますが、当時は兄貴の影響で…と答えていたのですが、実は僕のほうが先にギターをやっていたんですよ。
兄貴の影響で、と言っておいたほうが楽だったので…(笑)
幼稚園の時にウクレレをはじめたのですよ。兄貴のために送ってきたウクレレが自宅にあって、テレビをみた時に、家にもあんな楽器があったな~と思い出して、自分でそのウクレレを出してきたら、母親にそんなの汚いから出してきちゃダメ!って叱られたのを今でもよく覚えています。
それで隣りの家に持って行って、ピックが分からないので、マッチ棒をピックの代わりに弾いていましたね(笑)
やっているうちに何となく曲が弾けるようになって、それを見ていた父親が面白がって、質流れのギターを僕に買ってくれたのが小学校1年生の時でした。
弾くのが楽しくて、風呂敷に包んだギターを担いて、小学校に通っていました。そうしたら、先生から古賀政男さんの「影を慕いて」を弾いてくれる?ってリクエストされて、僕は父と母からメロディを聞いて、耳コピーで覚えていって演奏したら先生にとても喜んでもらえたり… 両親とも歌手志望だったので、音程もきちんと教えてもらえたお陰です。
それから小学校3年生から4年生頃にかけてエレキギターを弾き始めましたね。
今日、テレビで谷村新司さんの追悼番組を拝見したら、谷村さん曰く、ギターを始めたきっかけは女の子にモテたいからだとお話しをされておりましたが…
僕はそうではなくて…(笑)
2パターンあって、モテたい派とギターが好きな派がいて、僕はただギターが好きだったのですよ(笑)
モテたいというにはまだ早すぎましたね。小学校3年生とか4年生くらいでしたらね(笑)
デビューのきっかけは
小学校5年生の頃に「ちびっこのどじまん」という番組に出ようと思って、加山雄三さんの「夜空の星」を歌おうと思つたのですが、エレキギターは当時は不良のイメージがあったので、この曲では落とされちゃうなと思って、敢えて歌いたい曲は伏せて、荒木一郎さんの「今夜は踊ろう」をギターを弾きながら歌い、ついにチャンピオンになりました。実は最近加山雄三さんの隠れファンであることをカミングアウトしたんです!今まで50年間も伏せていました(笑)
それから、当時は誰かの門下生にならないとデビューできない時代だったのです。
僕のソウル・ソングである美空ひばりさんの「リンゴ追分」の作曲者の米山正夫先生の門下生になりたくて、米山先生が審査員をなさっているオーディション番組の情報を週刊誌でみて、大阪、名古屋など、あればどこでも出かけて行きました。ある日、東京の代々木でオーディションがあると知って、父が「お父ちゃん米山先生と友達になってくる!!」と言って、米山先生のところに行って、本当にそれから米山先生と父との文通が始まったのです。父親の子供を歌手にしたいという強い情熱が米山先生にも伝わったのか、僕が小学校5年生の時に米山先生の門下生にしていただきました。
野口さんも、お父様も実行力が凄いですね。思ったことを具現化していくエネルギーはどこから…
そうですね。わりと子供の頃から思い立つと実行してしまう性格でしたが、それを何も言わないでやらせてくれていた両親が凄いです。子供の僕をずっと影で応援してくれていましたね。
僕はNHKの「ファミリーヒストリー」という番組で知ったのですが、親父は名古屋の歌謡コンクールに出て、そこで一位になったらレコード歌手になれるというコンクールだったのですが、親父は二位で、田端義夫さんが一位だったのです。田端さんのことを親父はよく知っていたらしいのですが、僕には全く教えてくれなくて、それで、田端さんはデビューが決まり、「よし、俺は来年だ!」って父は思っていたら、召集令状がきてしまったのです。
それから7年後くらいに帰ってきた時には、田端義夫さんの「かえり船」がヒットしていて、だから親父に弾き語りを教わったのは僕が小学校一年生の時に、「かえり船」その曲一曲だけですね。
お父様も弾き語りをされていたのですね
そうみたいですね。でもあまり親父がギターを弾いているのは聞いたことはなかったのですが、岐阜にいた子供の頃は両親に自分の歌を聞いてもらいたくて、それが嬉しくて窓を開けて毎日、歌っていましたね。そうして、たまに歌わない日があると近所のおばちゃんたちが「あれ?昨日は歌声が聞こえなかったけど、身体の具合でも悪いのかい?」って心配してくれるんですよね。それくらい僕の歌声が外まで聞こえていたんですね。(笑)
それから米山先生のところでデビューが決まり、上京して、変声期になっちゃったのが最初の挫折なのですが、当日の譜面を見ますと、米山先生の直筆の譜面で、キーが段々下がるので、コードを自分で下げて書いているんですよね、それが、何とも切ないですよね。
米山先生はきっと僕には声が落ち着くまで少し休んでいなさいということだったのですが、僕にとって田舎を捨てた気持ちがあるので、田舎にも帰れないし、未来もないし、きっと焦りがあったのでしょうね。
そのあと「博多みれん」でデビューされましたが
そうですね、僕は勝手に米山先生のところをクビになったと勘違いして、「紅白歌のベストテン」でスクールメイツにはいって、白いボンボン持って後ろで踊っていた時期もありましたし、情報があれば何でもやってみようとチャレンジしましたね。
ロックバンドにも入った時期があり、僕以外のメンバーは団塊の世代で兄貴と会っているみたいで凄く楽しかったのですがグループは自分には合わないなと思ってすぐにやめて、最後に演歌も歌ったのですが、演歌を良く分かっていなくて。その頃、バンドでR &Bやゴスペルをやっていて、オーティス・レディングをコピーしてやっていたんですが、その小節を使うと、演歌の先生が「君の小節は変だね!」って、できるだけ小節を使わないで演歌を歌いなさいと。R &Bの小節は日本の演歌には合わなかったようですね(笑)
それからすぐ3ヶ月後には「青いリンゴ」の大ヒットでした!
食べていけない時期に、たまたま雑誌で彼氏役の横顔のモデルをやったことがあるのですが、正面の顔も写った記事がきっかけでファンレターがくるようになって、ポリドールから作曲家の筒美京平先生が「青いリンゴ」を作曲してくださったのです。大巨匠ですが、兄弟のように凄く仲良くしていただき、勝手にピアノを弾かせていただいたり、筒美先生とは楽しい日々を過ごさせていただきました。
筒美京平先生は全くメディアには出られないかたでしたが…
日本レコード大賞はいつも次点次点で「甘い生活」の時はとれるだろうと言われていたのですが、地方公演があり、上野駅に着いてから、やっぱりダメだったと連絡が入り、でも作曲賞というのがあって、「ゴロー、歌謡賞じゃないから、出なくていいんだよって言われたのですが、「いや、京平先生だから僕は出ます!京平先生のために歌いたい!」と言ったら、「ゴローちゃんが歌うなら僕が指揮をするよ」と京平先生が言ってくださり、第16回日本レコード大賞には僕も出演したのですが。京平先生がテレビに出演されたのは、その時一回だけですね。(この曲で第25回 NHK紅白歌合戦に3度目の出場をした)
筒美京平先生がお亡くなりになられた時はショックだったでしょうね
僕は自分の曲って普段聞かないんですが、たまたま撮影の仕事で、先生の曲を聞いていたらヘアメイクのひとが「大変!!筒美京平先生が亡くなった!」と駆け込んできたのでビックリしました。
野口さんは沢山の音楽賞を受賞されていますが、その中でご自身にとって一番思い出深い賞はなんでしょうか
・第 8 回日本有線大賞・グランプリ
・第 17 回日本レコード大賞・歌唱賞
・第 6 回日本歌謡大賞・放送音楽賞 受賞
どれも思い出深いですが、まだ10代の子供だったので、賞の重みをよく理解していなかったのかもしれませんね。特に思い出深いのは、日本有線大賞・グランプリの時ですかね~。僕の隣りに布施明さんと沢田研二さんが座っていて、僕は真ん中だったのですが、「さぁ!グランプリの発表です!」って司会者が言った途端にお二人が真ん中にいる僕を見たんですよね。
あれ?なんでかな??と思ったのは良く覚えています。だって、受賞されるのは布施明さんか、沢田研二さんだと思っていたので、僕の名前が発表された時には本当にビックリしましたね!!
僕はスター歌手の末っ子なので、森進一さん、五木ひろしさん、前川清さん、布施明さんや沢田研二さんに凄く可愛がっていただいていましたし、兄貴が団塊の世代なので、年上の人への甘え方を自分でも知っていたようなところもあったかもしれませんね。
スター世代の末っ子で、アイドル世代の長男
スター歌手の先生について習ってデビューするという時代だったので、ロードマネージャーが僕も若い子をやりたいんだよねって、連れてきたのが西城秀樹だったりとか、フォーリーブスのバンド仲間が同世代で、合宿所に遊びにいっていた時期もありましたね。それでご飯食べに行こうって言われて、その時に紹介されたのが郷ひろみでした。
新御三家のなかでは、野口五郎さんがいちばん最初のデビューでしたね
僕がデビューしたから、彼らもデビューしたという時の流れだったのかもしれません。
フォーリーブスの皆さんとはお親しくなかったのですか
僕よりも段階がひとつ上でしたし、当時はグループサウンズ全盛期の時代でしたので歌番組でご一緒することがあった程度でしょうか…
新御三家全盛期が到来して
僕は確かにスター世代の末っ子でアイドル時代の長男ですが、本当のアイドル世代を作ったのはやはり、秀樹とひろみだと思いますよ。
スター世代の末っ子の僕は歌う時の姿勢を厳しく指導されました。
「あなた~♪」と手を差し伸べたりするとその手をパチン!と叩かれて、歌い方の表現に手振りなどのジェスチャーみたいのは必要ないと厳しい注意ばかり受けて育ちました。
「真っ直ぐ歌ってこそが歌だろ!」「何か説明するような手振りは歌じゃないだろっ!」ってきつく叱られましたね。
感情で手が出そうになる時もあるのですが、未熟者って叱られていました。だから前川さんも五木さんも歌う時は手振りはなかったですよね。難しいことですが、無感情で歌うのが最大の歌い方なんですね。
美空ひばりさんの歌い方は凄いですね、涙を瞼に溜めて溜めて、絶対に流さないんですよね。それって凄くないですか…! それで2コーラスめにバッと涙を流すんですね。うまく表現できないですが、本当に歌の神様がついている大スターです!!
そこからミュージカル俳優としてのきっかけは
最初は「ロミオ&ジュリエット」帝国劇場 1983年6月2日~27日ご出演でしたがロミオ役は野口五郎さん(27歳)、ジュリエット役は古手川祐子さん
現代版でやりたいことと、ナショナルシアターのイギリスの演出家のマイケル・ボーダノフ氏が来日されるということと、その音楽もやらせてもらえるということで、やってみょうと思いました。
その時の演奏がGORO’sバンドでしたがどんな編成だったのですか
リズム隊の編成ですね。
海外の演出家はエクササイズから違うので、凄いなと思いました。人格形成のための質問などもされまして、ロミオは食べるものは何が好きなの?とか。そんなこと考えていなかったので、一瞬答えられないですよね。
恥をかく楽しさとかも学びましたね。稽古場で端に出演者が全員いて、目隠ししてバット持って10回グルグル回って、演出家が「スタート!」っていうと無様な格好して演出家の声が聞こえるほうに向かって、全員が走って行く、それを見ているひとが大笑いするでしょ、でも一生懸命やるって大笑いされてもこんなに素敵なことなんだよって思えることが嬉しかったですね。恥をかいて一歩がはじまるのですね。
その後、ミュージカル『Les Misérables』のマリウス役に抜擢されますね
野口五郎さん(31歳)。共演の岩﨑宏美さんはファンテーヌ役 。
(参考: 帝国劇場 1987年6月17日水曜日初日。その6日前の6月11日からプレビュー公演が始まる。)
マリウス役はオーディションでした。僕は出るつもりはなかったのですが、もともと、演出家のマイケル・ボグダノフ氏とイギリスの演出家・脚本家のジョン・ケアード氏が仲良しだったので、僕のことも聞いていたようで、マイケル・ボーダノフ氏が僕にオーディションを受けるように連絡がいったようですね、それで受けて合格しました。
この、プレビュー公演というのがはじまったのが、ミュージカル『Les Misérables』初演からだったのですね
そうですね。僕は初めての経験が本当に多いですね (笑)
初演は9人のプリンシパルがいたのですが、体調不良になって、だんだん倒れていくんですよ、そのくらい体力を消耗する舞台でしたね。実は僕も過呼吸とパニック症候群になって倒れたんです。
Les Misérablesの著者、ヴィクトル・ユーゴというひとは何百年に一人という天才ですから、どんなに僕らが頑張って演じても模索状態で、見下ろされている感じがしましたね。特に初演でしたから緊張の連続でした。
2011年特許を取得されている。ご自身が開発した動画配信サービス「テイクアウトライブ」現代社会がアナログからデジタルに移行し時代の流れを先読みしてアナログからデジタルコンテンツの配信サービス展開とは、そのアイデアの源泉はどこから生まれてくるのでしょうか
(参考:イベントの来場者にQRコードを印刷したカードなどを販売する。イベント後に、そのQRコードをスマホの専用アプリで読み取ると、当日のライブを視聴できるコンテンツの配信サービス。)
氣志團のライブでは、来場したお客さんの6~7割がテイクアウトライブを購入したそうです。ドリカムやボイメンなど様々なアーティストが活用して話題になっています。「テイクアウトライブ」を使った「HIDEKI&GORO」プロジェクトも実行された。
テクノロジーを駆使して人がどんどん便利になっていく流れは止められないのです。そこにどうやって豊かさを共存させるかということをいま一生懸命に考えています。
それが成就するかしないかは分かりませんが、全ては歌に通じることなので、とにかく一生懸命に取り組むことが大事だと思って日々考えていますね。
いま特許取得はおいくつほどありますか
数えたことはないですが多分、11個ほどあると思います。
僕は物事を着火することが大好きです。
いまも水面化で発案されているものもあるのですか
はい、あります!とんでもないような素晴らしい方々と日々お会いしいてますね。
他にも「終活」ではなく、終わりに勝つと書いて「終勝」この商標も持っいらっしゃるとのこと
自分の目標なんですよね。最後に勝つとはどんなことなのかは分かりませんが、人生の最後の瞬間に笑えたら最高じゃないですか。
最高に幸せだなって思う瞬間とは
ひとつのことに集中して瞑想している時ですね。歌っている時も幸せですね。
53年という長いキャリアを経て、今もなお、なぜそんなに変わらず歌がお上手なのでしょうか
キーはもしかしたら、デビュー当時より上のほうは上がっているかもしれませんね。
昨年は岩﨑宏美さんとの Eternal Voices『好きだなんて言えなかった』作詞は松井五郎さんでした。野口五郎さんとの初コラボレーションアルバムですが、このアルバムは野口五郎さんがディレクターをされたとのこと
はい。松井先生も五郎さんなので、名前変えなくていいから、オフィスGにこようか~ なんて笑っていました(笑)
楽しすぎてお話は尽きませんが、最後にひとことファンの皆さまへのメッセージをお願いします
ドリーム・キャラバンでは素敵なアーティストの皆さんとご一緒できることがとても嬉しいですし、皆さんからの若いパワーをゴッソリといただきます!!(笑)
本当のことを申し上げますと、まさか昭和が生んだ稀代の大スターである野口五郎さんにドリーム・キャラバンご出演が叶うとは想像もしておりませんでした。しかし、日本初演ミュージカル『ロミオ&ジュリエット』、『Les Misérables』の大役の実績を刻み、日本のミュージカル界にレールを敷いてくださいました。
野口さんはとても気さくに昭和の大スターであったジャズミュージシャンのお名前がポンポンと出てくることには嬉しさと驚きを感じましたが、発明家でもあるので、色んなアイディアは全て音楽を楽しむため!とも仰られております。音楽がお好きなご両親にとても大事に愛されて、幼少より歌手になるための、進むべき道は明確だったのかもしれません。
沢山の大ヒット曲がある中で、「私鉄沿線」はお兄様である佐藤寛さんの作曲ですが当時の音楽番組で聴かない日はないほどでした。
インタビュー中もまるで少年のように瞳がキラキラとされていて、タイムスリップしたかのように貴重なお時間をいただきました。
昭和、平成、令和から未来へと駆け抜ける野口五郎さんのドリームはデビュー53年目にして今始まったばかりかもしれません…
そんな素敵な野口五郎さんのドリーム・キャラバンの選曲にもどうぞご期待ください!!
撮影:間野真由美
野口 五郎
1956年 岐阜県生まれ。1971年5月1日 演歌『博多みれん』でデビュー、同年ポップスに転向し『青いリンゴ』のヒットで一躍ティーンのアイドルとして人気を獲得し、翌年のNHK紅白歌合戦に当時の最年少記録で初出場。『甘い生活』『私鉄沿線』などのNo1ヒットで数多くの音楽賞を受賞。20代初めには生涯の師とも言える筒美京平氏と共に海外レコーディングに挑戦。デヴィット・サンボーンやラリー・カールトンと言ったトップミュージシャン達と意欲的な4枚のアルバムをリリース。ギタリストとしても高く評価される。俳優としてもNHK大河ドラマ『功名が辻』、朝の連続テレビ小説『さくら』やドラマ『ケイゾク』、『メゾン・ド・ポリス』など話題作に出演。ミュージカル『レ・ミゼラブル』では初代マリウス役として今でも伝説となっている。
2022年5月には岩崎宏美とのデュエットアルバム『Eternal Voices』をリリース、同タイトルのコンサートを全国各地にて開催し好評を得る。
また、2022年5月に桑田佳祐の声掛けで集まったギターを抱えた5人の同級生親父バンド〝 時代遅れのRock'n'Roll Band 〟も話題になり、同年紅白歌合戦特別枠にて5人揃って出演するなど、個人での活動以外にも意欲的に参加をして注目を集めている。
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※本公演は各種感染予防対策を講じたうえで実施いたします。今後、政府・自治体・会場の方針によっては、対応を変更させていただく場合もございます。最新情報は当ホームページにてご確認くださいますようお願いいたします。