インタビュー Vol.64
流れに逆らわないで、ただ好きなことをずっとやって生きてきただけなんです
マイク眞木


マイク眞木さんは、幼少の頃から音楽に親しまれて来られたのですか?
クリスチャン系のボーイスカウトに入っていたのですが、その集まりに行くと必ず教会に行って讃美歌を歌うわけですね。その時は大して好きではありませんでしたが(笑)。家では、音楽好きの父がトロンボーンを吹いたり、マンドリンを弾いたりしていましたし、進駐軍のラジオ放送(FEN)もよく聴いていました。

 
ご自分で楽器を演奏するようになったのは?
自分でギターを弾くようになったのは高校生ぐらいからですね。FENでたまたま聴いた曲が、アメリカのカントリーのミュージシャンが歌っているセイクレッド・ソング、つまり讃美歌だったんですが、子供の頃から教会で歌っていた曲だったのでメロディは知っているわけですよ、歌詞はもちろん英語でわからないのですが。それで「何だこれ、こんな歌よく知ってるわい」ということで、ギターで伴奏つけて真似して歌い始めたっていうのが最初の頃ですかね。

 
それからバンドを組んで本格的に音楽の道を目指されたのでしょうか?
いやいや、音楽で食っていくなんてことは大変だということはわかっていましたから、プロを目指してやっていたわけではないですね。大学では、先輩の石田さん(「石田新太郎とシティライツ」のリーダーとしてジ・オープリーにも出演)のグループに入れてもらおうとお願いしたんですが断られちゃったんですよね(笑)。なので仕方がないから自分でフォーク・グループを作ったんです。そのバンドでギターやバンジョー、マンドリンなんかを弾いて歌っていました。

 
学生バンド全盛の時代、結構な人気だったのでは?
そうですね、結構人気はあったと思います。年に何回かですけど、コンサートをやれば超満員でしたね。当時、「東京グランド・オール・オープリー」というカントリー・ミュージックの大きなイベントがあって、今でもご活躍中の先輩方が大勢出演されていたのですが、昼間の早い時間は色々な学生バンドが入れ替わり立ち替わり出演するんです。でもまだ早い時間帯だからお客さんは全然入っていないんですよ。だから作戦を考えましてね、メンバーの一人が交通事故で遅れているってことにして、プロの演奏が始まる直前でお客さんが沢山集まってきた頃に出番をもらうことができたんですね。それで演奏したら、大ウケにウケちゃって(笑)。その時はルービン・ブラザーズみたいな感じでセイクレッド・ソングを演奏しましたかね。

 
その人気から「バラが咲いた」のヒットにつながってくるのでしょうか?
あれはね、いわゆる「仮歌」として吹き込んだものなんですよね。その当時やっていたアルバイトの一つのような感覚で、本来歌う歌手のためにデモ・テープを作ったわけです。後日、プロデューサーから「この録音でレコードを出したい」って言われて。こちらとしては「どうぞご自由に」ってところでしたけど、それがまさかのヒットに繋がるとは夢にも思いませんでしたね。でも、こんな現象はほんの短いもので、一年も経てばみんな忘れちゃうだろうと思っていたので、歌手として生きていこうとは思いませんでした。その後アメリカに住んでいた時期があって、数年後日本に戻ってきた時に、皆んなこの曲を覚えていてくれたんですよね。

 
「バラが咲いた」という曲に背中を押されるようにミュージシャンの世界に入ってきたということですね。
そうかも知れませんね。その当時はまだ自分の将来について揺れていたのですが、やっぱり歌手としてやっていくべきなのかな、僕はこの曲を生涯歌っていくべきなんだろうな、というふうに考えて決断しましたかね。それが1970年の頃ですね。

マイク眞木さんは、音楽以外でも多趣味で有名ですよね!
小さい頃から、工作とかプラモデル作りとかが好きで、今でもやっていますよ。作るのは乗り物系が多いですかね。作るものがだんだん大きくなっていって、山梨にログハウスを作ったり、千葉にある家も自分で改造しました。

 
家まで自作してしまうとは……!
ええ、何でもやっちゃうんですよ。普段から買い物、洗濯、車の修理、家の修繕、何でも自分でやります。
 
モーター・スポーツやアウトドアなんかも達人級だとか(笑)
いやいや普通ですよ。小さい頃、父がキャンプやハイキングみたいなことが好きだったので、そういう野外活動に触れる機会は多かったですよね。それと、ボーイスカウトにも入っていましたから、野外活動は半ば強制的にやらされていました。当時は「何でこんな面倒くさいことするんだろう」くらいにしか思っていませんでしたけどね。でもずっとそうやってきたから、年中行事みたいなもんで、やっていないとしっくりこない感じで、何となく今だにやっています。やっていることが子供の頃から何も変わっていないんです(笑)
 
お父様の影響が大きかったのでしょうね。
そうですね、当時としては、色々な体験をさせてくれたと思います。父は舞台美術の仕事をやっていましたので、芸術や芸能に近い環境は身近にありましたよね。学生の時は、父の口利きで特撮の番組制作のアルバイトなんかもやらせてもらいました。当時のドラマは生ドラマですから、放送中は裏で照明の操作なんかもやったりしていました。ああいう仕事は大好きですね、今でも特撮モノを観ると血が騒ぎます(笑)

 
海外での生活も長かったそうで。
そうですね、アメリカ本土とハワイに住んでいました。アメリカ本土には20代の若い頃に行きまして、中古のキャンピング・カーを買ってアメリカ縦断をしました。カントリーの聖地、ナッシュビルにも行ってみたかったですし、カントリー・ミュージックというものが育った環境を知りたかった。もともとカントリー・ミュージックなんてものはアメリカにはなかったわけですよ、ルーツとしてはヨーロッパからの移民がアメリカ大陸に持ち込んできた音楽なわけで。それがだんだんああいうスタイルになっていった理由というか土壌を自分自身で感じたかったんですよね。
ハワイの方は結婚して子供も生まれてから、勢いで家族で移住しました。ハワイでは、仕事としてはラジオの日本語放送をやったりしていました。

 
特撮とかラジオ放送とか、音楽以外にも様々なお仕事の遍歴があるようですね。
ええ、なんでもやりたいんですよ。スーパーのレジ打ちでも何でもやりたいですよ(笑)。実際にアメリカに住んでいた時はやっていましたしね。「バラが咲いた」の後アメリカに移り住んで、1970年に日本に戻ったのも音楽の仕事ではなくて、大阪万博のとあるパビリオンでの司会を頼まれまして、それで帰国しました。
 
「バラが咲いた」でヒットを飛ばした後でも、そのようなお仕事もなさったのですね!?
別に、ヒット歌手が何をやっちゃいけないなんて決まりはないですからね。面白そうだなと思えばやるし、気が乗らなければやらなければいいだけで、流れに逆らわないで、ただ好きなことをずっとやって生きてきただけなんです。心の中は17歳のままです(笑)

 
今の30~40代くらいの世代には、俳優としてのイメージも大きいと思います。『ビーチボーイズ』(フジテレビ系)では、まるでマイクさんをモデルにしたような、魅力的なナイスミドルを演じていらっしゃいましたね。
あれは、自分では一生懸命役作りをしたつもりなんですけどね、「マイクさんのまんまですね」とよく言われてしまうんです。当時、息子にも「全然芝居してないじゃん」と言われてましたね(笑)

ミュージシャンとして、現在もかなり精力的にご活動なさっていますね。
そうですね、年によっても違いますが、だいたい年に50~70本くらいは人前で演奏させていただく機会があります。好きだからやっていけるんでしょうね。喜んでもらえなくなったらミュージシャンは終わり。でも、ありがたいことに喜んでもらえているようなので、まだ続けていけるかなと思いますし、逆に、続けていくべきだなとも思っています。

 
カントリー・ミュージックへの想いはありますか。
子供の頃の話ですけど、「東京グランド・オール・オープリー」のお客さんとしてアメリカ兵が来ていまして、なぜかその兵士が舞台に呼ばれて歌い始めたんですね。もちろん英語で意味はわからなかったんですが、彼はきっと故郷に残した家族なのか恋人なのかわかりませんけど、大切な誰かのことを想って歌ったんだと思うんですよね。それを聴いた時に、子供ながら「なんかいいな」って思ったんです。それが自分なりに感激した経験で、ずっとカントリーを歌い続けているルーツになっているのかもしれませんね。

 
最後に、2月8日の《ジ・オープリー》にご来場いただくお客様にメッセージをお願いします。
普段ライブやコンサートをやっていていつも感じることですが、受け取る側は本当にそれぞれなんですよね。同じ曲でも、聴いて楽しいと思う人もいれば悲しいと思う人もいるでしょう。聴く人によって受け取り方が全部違うので、その人なりにそれぞれの感じ方で受け取っていただいて、コンサートを楽しんでもらえれば何よりだと思います。

 

 
 【マイク眞木プロフィール】
1944(昭和19)年、東京赤坂生まれ、赤坂育ち。日本大学芸術学部在学中にモダン・フォーク・カルテットに参加。1966年「バラが咲いた」で歌手デビュー。大ヒットとなりその年の紅白歌合戦出場も果たす。モービル石油CMソング「気楽にいこう」も話題になった。また、有名な「キャンプだホイ」の作詞作曲も手がけている。アメリカ大陸、ハワイに長期在住の経験を経て1997年、ドラマ「ビーチボーイズ」の出演を機に帰国。現在は赤坂と千葉・九十九里を行き来する生活を続けている。3人の息子は皆プロサーファー。他に長女、孫6人。2013年1月発売のアルバム 「OLDSCHOOL」に続き、2015年7月発売のアルバム「ハマクラづくし」でも新曲を書き下ろしている。デビュー53周年を経た現在も精力的にライブ活動を続けている。

 
本インタビュー記事は朝日新聞折込紙《定年時代》様のご協力に基づいて編集されています。

 
写真提供:石田新太郎とシティライツ
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