インタビュー Vol.63
僕が憧れていた音楽の源流は、すべてカントリー・ミュージックにあった。
それがわかった瞬間から僕らの新しい挑戦がスタートしました。
高橋和也|石田美也
司会:高橋さんには2年前にもインタビューさせていただいて高橋さんご自身のお話をたくさん伺いましたが、今回は2019年2月の『ジ・オープリー』に向けてカントリー・ミュージックのことを色々と教えていただきたいと思い、またお時間をいただくことになりました。そして、高橋さん率いる『高橋 HANK 和也 & The Driving Cowboys』のメンバーでもあり、今回はMCとしてもコンサート全体を盛り上げてくださるカントリー・シンガーの石田美也さんにもご同席いただきました。どうぞ宜しくお願いします。
高橋・石田:はい、宜しくお願いします。
◉“カントリー”と“ウエスタン”って別モノ?
司会:とっても初歩的な質問になりますが、そもそも“カントリー・ミュージック”とは、どのような音楽ジャンルを指すのでしょうか?
高橋:起源としては1900年代の初頭くらいから、主にアメリカ南部の白人たちの音楽ですよね、山岳地域の人たちが歌ったマウンテン・ミュージックだったり。もともとはスコットランド、アイルランド、イングランドの方からやってきた開拓民たちが、そのお国の楽器を使って、お国の音楽を懐かしんで演奏していたのがカントリー・ミュージックの発祥だと考えています。
司会:ヨーロッパから持ち込まれた音楽だったのですね?「ウエスタン」というと、いわゆる西部劇を連想しますから、アメリカ土着の音楽なのだと思っていました。
石田:「カントリー」と「ウエスタン」は実は違うジャンルなんです。でも日本だと、戦後「日劇ウエスタンカーニバル」が流行った頃などに「カントリー&ウエスタン」として一緒くたにして紹介されていたので大体同じようなもののように考えられてしまうのですけど、アメリカからすると「カントリー」と「ウエスタン」は全く別モノなんです。「ジャズ」「ロック」みたいに、「カントリー・ミュージック」はジャンルとしてきちんと確立されている音楽なんですよ。
司会:日本では「カントリー」と「ウエスタン」はかなり混同されてしまっているように思いますね。
高橋:まあ、テンガロン・ハットにウエスタン・ブーツで同じような格好していますしね(笑)。 植民地時代にイギリスから渡ってきた移民たちは、19世紀後半のゴールド・ラッシュで、今よりもっと良い暮らしを求めて「ゴー・ウエスト!ゴー・ウエスト!」を合言葉に、大陸東部から、中部・西部へと移動して……いわゆる西部開拓時代ですね。その頃を描いたウエスタン・ムービー(西部劇)が20世紀前半に大量に制作されるわけですが、そこで使われていた音楽が「ウエスタン・ミュージック」です。それが戦後日本にどっと入ってきました。当時、米軍放送のFENを通してウエスタンを聴いた方達にとっては、とても新鮮だったでしょうね。今の80代くらいの方々が熱中して、自分たちでも演奏したりして日本でも広まっていったということですよね。
司会:「ヒルビリー」というジャンルはまた違うものでしょうか?
高橋:「ヒルビリー」というのは「カントリー」という呼び名がある前に呼ばれていた名前ですね。「ヒルビリー(Hillbilly)」はいわゆる「田舎者」っていう意味で、言ってみれば都会の人から見るとある特定の南部の地域を田舎扱いしていたわけで、そのヒルビリーが演奏する音楽だから「ヒルビリー・ミュージック」。 だから、「ヒルビリー」の延長が「カントリー」というジャンルとして定着したということですね。
◉明るい曲調にひそむ悲哀
司会:アメリカのいわゆる「フォーク・ソング」も、編成や音楽の雰囲気としては近いものがあると思いますが?
高橋:そうですね、基本的には非常に似通った楽器の編成だし、アコースティック・ギターを使って、フィドルも入ったりとか、原型はみんな一緒だと思うのですけれど、要するに目的の違いですよね。フォーク・ミュージックの場合は、自分たちの置かれている境遇だとか環境に対して民衆のメッセージを歌に乗せて訴えるプロテスト・ソングであるし、カントリー・ミュージックは自分たちの村や町でパーティーをする時のダンス音楽だったり、みんなで口ずさめるような親しみやすいメロディで、誰もが共感できるような恋愛の歌とか、自分たちの故郷を愛する気持ちを歌うような、純粋で素朴なエンタテインメントですよね。
司会:なるほど。ではカントリーはやっぱり明るい歌が多いのでしょうか?
高橋:基本的にはね、カントリーはメジャー・スケールの曲が多いんですよ。それで、とても明るい音楽として耳に入ってくるんだけれども、歌詞の内容を知ると、実は非常に暗いことを歌っていたりする曲もたくさんあります。とても切ない話だったり、苦しい境遇の話だったり、アルコール中毒になった男の悲しみとか、殺人をテーマにした曲もあるくらいです。時代によって内容も変遷していって、例えば70年代にはベトナム戦争でヒーローとして帰国したはずの人たちが自国で蔑まされて悲しい思いをしたっていうことが歌われていたり。割と「涙」っていうのは結構カントリーの中ではでよく歌われますね。「tears」とか「crying」といったワードがよく歌詞の中に出てきます。でも、そういう悲しい歌もすごく明るく歌い上げてしまうんです。それがまたカントリーの魅力なんですよね。日本だと、悲しい時にはマイナー・コードでさめざめとすすり泣くかの如く、耐え忍ぶが如く……といった曲調でわかりやすいですけれど、そういう民族性の違いが出てくるのも面白いですよね。
石田:恋の歌、故郷を懐かしむ歌、苦しい境遇を歌いつつもその気持ちを浄化するような、本当に素朴な庶民にとっての愛唱歌というか、それがカントリーチックなんじゃないかなと思います。
◉日本におけるカントリー
司会:戦後、日本に入ってきたカントリー・ミュージックはどのように発展していったのでしょう?
高橋:日本では独特の発展を遂げていると思うんですよね。カントリーの素晴らしさに最初に気づいたのが日本におけるカントリーの第一世代、つまり今の80代くらいの大先輩たちですよね。小坂一也さん、ジミー時田さん、寺本圭一さんなど、カントリーの第一世代の方たちが活躍しました。そして、70代、60代、50代の方も、その時代によって変遷する当時のアメリカのスターに憧れたりしながらカントリーを楽しんでいたんだと思います。
石田:私の父(石田新太郎氏)はペダル・スティール・ギターのプレイヤーですけれども、当時演奏の仕事で米軍基地に行くと、やはりカントリーをリクエストされて演奏をしながら、日本でのカントリー・ミュージックの文化を受け継いできたっていう部分もありますね。
司会:その全盛の時代から現在に至るまで、カントリー・ミュージックはどういう捉えられ方をされてきのでしょうか?
高橋:その後のカントリーっていうのは日本では低迷した時期があって、ちょっと途絶えちゃっているんですよね。要するに、一般的な意味でのリスナーに対するアピールが引き継がれなかったっていうことがあって。まあ、美也さんや僕にとっては子供の頃から親しんできた音楽でいつも身のまわりにあったからまた特別かもしれませんけど。僕もカントリーを演奏するようになったのは40代になってからですが、それは一つにはやっぱり僕らと同年代の人でカントリー・ミュージックを聴いている人達がすごく少なかったということと、とても素晴らしい音楽なのにどこかでそれをうまく和訳というか日本人に向けてわかりやすくトランスレートしてくれるパフォーマーなりシンガーが非常に少なかったということがあると思いますよね。だから、逆に言えば、せっかくこんなに素晴らしい音楽があるんだから、僕らと同世代あるいは下の世代の人にも聴いて欲しいっていう想いがあって、カントリーを自分でやりはじめたっていうところもあります。
石田:70~80代くらいの方は、ちょうど自分の青春時代に日本にカントリーが入ってきたので、当時を懐かしみながら聴いていると思うんですけど、それより下の世代だとやっぱりだんだん見方や聴き方が変わってきていて、私たちと同世代より下の人たちにとっては「懐かしい」っていうものではないですよね。
◉生まれた時からカントリーが身近にあったけど
司会:カントリー・ミュージックがどのようなものなのか、だいぶ鮮明になってきました。お二人のカントリー・ミュージックとの出会いはどのようなきっかけだったのでしょうか?
高橋:親父がカントリー・ミュージックのバーを経営していましたので、幼い頃から嫌でもずっとカントリーばかり聴かされていました(笑)。
石田:私の場合は父がカントリーのプレイヤーですから、私もいつもカントリーばかり聴いて育ちました。むしろそれ以外の音楽をあまり聴いたことがなかったくらいですね。日本の曲もほとんど聴くことがなかったので、男闘呼組の曲も知りませんでした…今になって改めて聴いて「いい曲だなー」って思ったりしています(笑)。小学生の時に聖歌隊で宗教曲を歌っていたりもしましたけど、いつからともなくカントリーをなんとか自分でも表現したいと思うようになって、どんどんカントリーに惹かれていきました。
司会:お父様からレッスンを受けたり?
石田:いえ、父からは歌を教わったということは全くなくて、むしろ最初は「なぜやるんだ」みたいな反応でしたね。加賀まりこさんのお兄様が六本木でお店をやられていて「前座に歌いにおいで」と誘っていただいて人前で歌わせていただく機会をいただいて、そこで曲を覚えるようになってから、父に「一緒にやるか?」って初めて声をかけてもらえたんです。そこから歌手としてのスタートですけれど、父はあまり語るタイプではないので、父の行動を見ていたり、他のメンバーに教えてもらいながらここまでやってきました。
司会:高橋さんも、カントリー好きのお父様から仕込まれたのでしょうか?
高橋:いや、僕らの世代っていうのはやっぱりロックですよね。ロック・ミュージシャンはどのジャンルよりも圧倒的な人気があったし、周りの仲間が聴いているものはみんなロック・ミュージックです。その当時は、僕のカントリー・ミュージックに対するイメージとしては、「アメリカの片田舎で聴かれている白人音楽でしょ」っていう偏見があったんですよね。もちろん、父が好きな音楽だということはわかっていましたけれど、よく父に「店でももっとロックかけてよ」と注文したら、「馬鹿野郎!」と怒られましたね(笑)
◉40歳を過ぎて目からウロコの体験、そしてハンク探しの旅へ
司会:そうだったのですね!てっきり、昔からカントリーがお好きで、男闘呼組や俳優業のかたわら、地道にカントリーも続けられていたのかと想像していました。それが、どうしてカントリーにのめり込むようになったのでしょうか?
高橋:はい。はっきりとしたきっかけがあるんです。父が若い頃からずっとコレクションしてきたアナログ盤が見つかったんですよ。100枚近いアナログ・レコードが出てきて。すごくボロボロの状態だったんですけど何とかクリーニングして聴けるような状態までに復旧して、それでまた聴き始めたんですよね。身近にありすぎてそれまで意識して聴いたことはなかったのですが、改めてちゃんと聴いた時に、すごく新しいものとして僕の中に入ってきたんです。ずっとやってきたロック・バンドの世界では当たり前の「自分のオリジナル・ソングでメッセージを伝える」というソング・ライターの原型みたいなものが、ハンク・ウィリアムスをはじめ1940年代から活躍していた人たちの中に「既にある」ということに気づいた時に、ローリング・ストーンズもビートルズもジョン・レノンも……誰も彼もみんな、僕が憧れていたミュージシャン達が憧れていたのはハンク・ウィリアムスであって、アメリカにおけるシンガー・ソング・ライターの第一人者っていうのはこの人だったのか!ということに気づいた時に、本当に目からウロコが落ちたというか……。そして「これが親父が好きな音楽だったんだ!」ということにも繋がっていくんです。そうすると、カントリー・ミュージックが俄然光り輝いて見えるし、とても大事なものに思えてきました。そして、この今の日本においてあまりにも皆んなに聴かれていないし、忘れ去られているってことに気づいた時に、「絶対自分はこれをやりたい」という気持ちが燃え上がって、そこから始まったんです。
司会:そんな転機があったのですね!そこから、どのようにカントリーへの理解を深めていったのでしょう?
高橋:最初は本当に無手勝流で、ネットでカントリー・バーを検索して見つけては訪ね歩きをして、ハンク・ウィリアムス好きのマスターに会いに行ったんです。そのマスターはプレイヤーではないんですけど、50年来の熱烈なハンクのファンで。その方と意気投合して、とにかく僕の歌を聴いてくれって頼んで。まさに道場のごとく通いつめて、歌い方や発音を指摘してもらいながら勉強させていただきました。そうやってどんどんカントリーにのめり込んでいきましたね。それが40歳過ぎてからですから、かれこれ10年ぐらい経つわけですね。
◉カントリー・バンドの結成
司会:高橋さんと石田さんは、カントリーを通じてお知り合いになられたわけですよね?
高橋:僕らが知り合ったのは、小野ヤスシさんがプロデュースされていた時代の《ジ・オープリー》に僕が初めて出させていただいた時ですね。美也さんはすでにカントリー歌手として活躍されていましたけれど、その時に共演したのがきっかけです。そして、ハンク・ウィリアムス生誕90年の2014年に、『ハンク・ウィリアムス物語』という音楽劇をプロデュースしたんです。自分で脚本も書いて、ハンクを演じながら歌うという舞台です。その舞台で美也さんにハンクの奥様のオードリーの役をやっていただいて、それ以来ハンクとオードリーとして一緒に歌うコンサートをずっと続けてきているんです。
司会:そこから、ご自身のバンド『The Driving Cowboys』に発展していったのでしょうか?
高橋:これまで、たくさんのカントリー・ミュージシャンの方々とセッションをやらせていただいてきたのですが、自分のバンドっていうのはなかったんですよね。でもやっぱり自分のバンドをどうしても作りたいと思っていました。そしてついに素敵なメンバーが揃って、『The Driving Cowboys』というバンド名で昨年から始めることができたんです。立ち上げからずっと美也さんが一緒にいたので、必然的に美也さんもメンバーですよね。特に改めて「バンドを作ろうね」って動いたわけではなく信頼できるメンバーが自然に集ってきて「よし、このメンバーだったら一緒にずっと演奏していきたい」って思えるようになって結成した感じです。それが去年の話です。
司会:『The Driving Cowboys』はどのような編成なのですか?
高橋:僕らが基本的に目指しているのが、ハンク・ウィリアムスのバンド『The Drifting Cowboys』のスタイルなんですよね、スティール・ギターとフィドルが入って、ギタリストとベースマンがいて、それでハンクがいるっていう、このスタイルですね。
司会:フィドルがレギュラーで入っているのですね。バンジョーは入らないのでしょうか?私、バンジョーのサウンドが大好きなんです。
高橋:ええ、ハンク・ウィリアムスのスタイルを目指しているので、僕らのバンドはバンジョーが入らないんですよね。
石田:シティライツ(父・石田新太郎氏率いるバンド)の場合は、スティール・ギターが常に入っているので、あまりごちゃごちゃ音数を増やさない方がいいということもあって、やっぱりバンジョーは基本編成に入っていないんです。そもそも、バンジョーを専門でやっている人が日本には少ないですしね。シティライツのギター奏者は、バンジョーもマンドリンも弾けるので、必要な時にはもちろん入れて演奏しますよ。
◉はじまった挑戦
司会:バンドも結成されて、いよいよハンク・ウィリアムスの伝道師としての活動に熱が入りそうですね!
高橋:カントリー・ミュージックって、そんなに興味がない人でも、聴けば「これカントリーだよね」ってわかるという、他に代え難い音楽性があると思うんです。つまりジャズやブルースやロックなどとは明らかに違う音楽であるっていうことは、多分皆さん一聴すると分かると思うんですよ。フィドルが入っていたりスティール・ギターが入っていたりというカントリー独特のサウンドもそうですし、それが好きになった人にとってはもう本当に代わりがないですよね、浮気のできない相手というか(笑)。カントリー・ミュージックにはまっていく人たちにとっては、ずっと生涯カントリー・ミュージックを聴いていたいっていう、それだけの魅力を持っている音楽ですよね。ハンク・ウィリアムスはたったスリーコードで凄いバリエーションの楽曲を作っているんです。シンプルなんだけれどもポエティックな歌詞。ハンクこそ、現代まで脈々と続くカントリー・ミュージックのシンガー達にも影響をずっと与え続けているオリジネーターであり、ポップ・ミュージックの「鉱脈」ですよね。
司会:カントリー特有の歌唱法とかってあるのでしょうか?
石田:うーん、どうだろう(笑)。最近、ライブの後なんかに「あなたの歌は本当にカントリーだね」って言ってもらえるようなったんですよ。でも、演歌もロックも歌ったことがないのでよくわからないんですけど、“カントリー風に”って何かを意識して歌っているということでもないんですよね……。
高橋:美也さんはね、いわゆる「トゥワング」、つまり南部訛りの英語の発音だったり歌い回しだったりが、カントリー・ミュージックを歌うことによって知らず知らずのうちに身体に染み込んでいるんですよね。アメリカの、例えばニューヨークの人たちにとっては田舎のちょっと訛った英語っていうイメージがあると思うんですけど、でも僕らにとってはむしろそれが心地よくて、カントリーの格好良さでもあるんですよね。ブロードウェイのシンガーみたいにキラキラと洗練されたアメリカン・ミュージックではなくて、音楽の原石のような、ネイティブな形をずっとそのまま残しているような、そこがたまらない魅力ですよね。
司会:ということは、英語を理解している方がカントリーの魅力をより深く味わえそうですね。
高橋:そうなんです。カントリー・ミュージックの魅力をいかに日本のリスナーに届けるかって考えた時に、やっぱりその英語の問題っていうのがありますよね。英語に通じていないと、歌詞の内容の深いところまではわからないということがあるので、それを日本語に直したり、あるいは日本語によるカントリー・ミュージックのオリジナル曲を自分たちで作って、それをお客さんに聴いてもらうということにも少しずつ取り組んでいます。これはとても難しい問題なんですけど、カントリー・ミュージックっていうのは白人の、しかも南部訛りの歌い方でなければやっぱりカントリー・ミュージックとは言えないっていう部分もあって、それがやっぱり本家の本当のカントリー・ミュージックだとは思うんですけど、でもそれを好きになった僕ら日本人としてはその良さを日本のリスナーにもわかりやすく届けたいっていう想いがあって、それが出来たらなっていうのが、美也さんも僕も共通した夢というかテーマですね。……いや、もう夢じゃないね、実際僕らがやらなければと思っています。古くからのファンの方々はご高齢の方も多いし、新しいファンの方たちを僕らが開拓しなきゃいけない。そのための挑戦を色々とこれからやっていきたいなっていう想いがありますよね。
◉カントリーの素晴らしさを分かち合いたい
司会:それでは、新しくカントリー・ミュージックに興味を持った人は、どのあたりから入っていけばよいでしょう。石田さんは、定期的にライブをされていますよね?
石田:はい、毎月必ず決まった曜日にライブをやっているのと、年に何回かはコンサートも開いています。それから、最近では自分たちの演奏を動画サイトに公開して皆さんに聴いていただけるようにしたりとか、色々な形で伝えられるようにしたいと思っています。気軽にカントリーに触れられる場所としては、このお店みたいにカントリーがずっとかかってるお店に来て聴いていただくのがいいですよね。ご主人のおすすめのナンバーがかかっているわけですからね。
高橋:そう、日本全国に数は少ないんだけれどもカントリー・バーとか、ライブハウスがあるんですよ。僕もネット検索して実際に色々なところを訪ねました。それが今すごく役に立っています。それから僕は鎌倉FMで毎月第二水曜日に『おやじのカントリー』いう番組をやっていまして、ひたすらカントリー・ミュージックだけをやる番組なんですが、カントリーに触れてこなかった人たちにもわかりやすく紹介するように心がけながら地道に6年続けてきましたので、カントリー・ミュージックの良さに気づいてくれる新しいファンがどんどん増えてきているのを実感しています。
司会:カントリーを聴く時のお作法などはありますか?
高橋:厳密に言うとね、セイクレッド・ソング(sacred music/宗教曲)の場合にはあまり掛け声はしてはいけないとか、いろんなことがあるんです。
石田:そう、神に捧げるような内容の曲だと、「ヒーハー!」って掛け声したり、騒いだりはせずに聴きますね、教会と同じ感覚で。でも、カントリーは元々はお酒を飲む場で騒ぎながら聴くような音楽ですから、まずは小難しいことは考えないで自由に聴いてください(笑)
高橋:アメリカの人達は、音楽をジャンルで選り好みをしないそうですね。これはロックだからとか、これはヒップホップだからとかって。ありとあらゆるもの、自分がいいと思ったら全部聴く。その中にカントリー・ミュージックもある。ジャンルの区別なく好きなアーティストなり好きな曲っていうのを持っている。そういう捉え方っていうのは、すごく肩の力が抜けているし、いいなって思うんですよ。カントリーだからといって特別なことは何もなくて、やっぱり自分が「いいな」と感じた曲だとか、あるいはこの歌手の声が好きだとか、まずはそういうふうに親しんでもらえればいいかなって思いますね。
司会:ここまでたくさんお話を伺って、カントリー・ミュージックは、古き佳き時代を懐かしんで演奏したり聴かれたりするばかりの音楽ではないということがよくわかりました。上から下までの年代、それぞれの楽しみ方がありそうですね。
石田:そうですね、年代っていうことでいうと、私は父と一緒にバンド活動をしていますが、私の子供もカントリーを歌うので、三世代でやっているわけですね。小学生から父の世代まで一緒に楽しめる音楽って他にそんなにないんじゃないかなって思うんです。どの世代にとってもカントリーはカントリーで、それぞれの世代に一番ピンと来る歌を歌って、聴いて、カントリーの素晴らしさを分かち合えたらいいなって思います。
高橋:まさに草の根活動ですが、そんな活動も、好きだからやっているともう楽しくて仕方がないし、喜びでもあるんですよね。その楽しさがお客さんに伝わればいいなって思います。生きている限り自分がカントリーを歌いたいって気持ちも消えないだろうし、カントリーが音楽シーンで大ブレイクしなくても、新しいファンが地道に増えて続けて欲しいっていう一心です。とにかくこの音楽が好きだっていう個人的な想いが強いので、それがある限りはずっと続けていけるでしょうね。
司会:お二人のカントリー・ミュージック愛がビシビシと伝わるお話をありがとうございました。私たち日本ポピュラー音楽協会も、お二人のご活動をぜひ応援していきたいと思います。今日は本当にありがとうございました。
司会:関口彰広
カメラマン:Ami Hirabayashi
於:新宿マローネ(高橋和也さんのご両親が経営するカントリー・バー)
カメラマン:Ami Hirabayashi
於:新宿マローネ(高橋和也さんのご両親が経営するカントリー・バー)
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